最近、病院へ行くことが、多くなり、常態化している。
その待ち時間も尋常ではなく、精神的にも良くない状況だ。
硬い椅子に座って、いつ来るかわからない順番に耐えていると、
臀部と腰が相当痛くなり、付き添いなのだが、次は自分の番か
と、考えなくてもいいことを考えてしまう。
その待ち時間で、随分前に読んだ、小林秀雄『モオツァルト・無常
という事』新潮文庫を読み直している。
無常とは何か、何度も読んで、反芻するのだが、未だに十分わかっ
たという実感はない。
断片的に見て、小林氏は、「・・・生きている人間とは、人間にな
りつつある一種の動物かな」という言葉が書かれている。
この考え方には、十分納得できるものがある。
「多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にし
ているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるま
いか」と述べている。これにもなるほどと頷いてしまう。
「・・・この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。
それは何時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態で
ある。」
人間という存在は、一種の動物的状態を指すということのようだ。
完全に人間として存在するとは、死んでしまった人間を指すので
あろうか。難しい問題だが、考え続ける価値のある課題だ。
そんなことを考えていた昨日、病院へ行く前に、ゴミ出しに出か
けた。その途中の道に、一匹の蝶が佇んでいるのが目に入った。
そっと羽を持ち、道の外の木に載せようとしたが、すぐ飛び立と
うとする。朝の寒さに耐えられなくなっているのかと思い、ツツ
ジの花が咲いているところまで運び、そこへ置いたが、身動きせ
ず、座ったままだった。
この姿を見る限り、我が家に滞留するルリタテハと変わりがない姿だ。
羽を少し広げた時、それが、アカタテハと分かった。
Webでお借りした写真で、アカタテハの羽根を広げた姿を見ていただいたい。
昨夜は、ずーっと雨だったので、どうしたのか今朝散歩に行く途中未届けに行ったが、すでにその姿はなかった。無事元気を取り戻して、飛び立ったと信じたい。この世は、無常なのだ。今朝は、雨も上がり、ササユリは開花後、はじめての太陽を浴びた。それを見ながら、その後の里山のカキノハグサの状態を見に行ってみた。かろうじて、まだ咲いているのが確認できた。
次に花を咲かせてくれると、楽しみにしている、イヌショウマを探したが、らしきものが、一つだけ蕾をつけていた。
何でもないただの草だが、私には貴重な花だ。安心して、ホッとした途端に、頭が痛くなり出して、何時も伺う里山のソバの店で、相変わらずのザルソバをいただいた。窓辺から見られる、里山のパノラマも見ていただきたい。
この光景の奥に、私が名付けた風の道という貴重な場所がある。
里山には、ヤギが2匹飼われているが、通りかかると一所懸命草を食べていた。ヤギの声をまねて、枯れた声で啼いてみると、同じような声で、啼いて応えてくれる。彼らに、いつも慰められて、1日の命をいただいている。まさにこの景色は、いやこの環境は無常だ。
自宅に到着したら、我が家のスミダノハナビというアジサイが美しい姿で出迎えてくれた。
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